世界がたべられなくなる日 

13日に千手コミュニティーセンターにて、
「世界がたべられなくなる日」映画上映いたします。
10:00~12:30    13:30~16:00
の二回上映!!!

これからを生きていくためにぜひ見て頂きたい映画です。
 観ても何も変えられないと言う人もいますが、
ネガティブな事から目をそらさず、
    まずはきちんと知ることから始めないと何も変えられない!!!
   と思ってます。


お正月にある方から素晴らしい文章を頂きました。
ちょっと長いですが、どうぞ最後までお読みください
 お読みになって胸をうたれた方はぜひ映画を観におこしください!!

■司馬遼太郎さん

 

「二十一世紀に生きる君たちへ」

 

私は、歴史小説を書いてきた。

もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。

歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かつて存在

した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」

と、答えることにしている。

私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。

 

歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちが

いて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。

だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っ

ている。この楽しさは-もし君たちさえそう望むなら-おすそ分けしてあげたいほどである。

 

ただ、さびしく思うことがある。

私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というもので

ある。私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。君たちは、ちがう。二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。

 もし「未来」という町角で、私が君たちを呼びとめることができたら、どんなにいいだろう。

「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている二十一世紀とは、どんな世の

中でしょう。」

そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。 もっとも、私には二十一世紀のことなど、とても予測できない。ただ、私に言えることがある。

それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。

 

昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。

 

人間は、-くり返すようだが-自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ

神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。

この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。

-人間こそ、いちばんえらい存在だ。

という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。

同時に、人間は決しておろかではない。

 

思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。

つまり私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。

 

このことは、古代の賢者も考えたし、また十九世紀の医学もそのように考えた。ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。

二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、二十一世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。

「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」

と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。

この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右(*注。原文は縦書き)に述べたように、近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。

この自然へのすなおな態度こそ、二十一世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。

そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。

そうなれば、二十一世紀の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬し合うようになるのにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。


さて、君たち自身のことである。

君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。

-自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。そして、すなおでかしこい自己を。

二十一世紀においては、特にそのことが重要である。

二十一世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術が、洪水のように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が、科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。

 右において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心におちいってはならない。

人間は、助け合って生きているのである。

私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、

構成されているのである。

そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。

原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。

このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。

 

助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。

他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。

「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」みな似たような言葉である。

この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。

根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。

その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。

この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない。

鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりよくを感じないのである。

もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分に厳しく、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、たのもしい君たちになっていくのである。

 以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。

同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。

私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。